アルツハイマー型認知症の精神療法

家族との対話

分かっているのかいないのか分からない

本人から自分の名前を間違えられると、家族は自分の顔さえも分からなくなったと衝撃を受けるものである。しかし名前を間違えたからといって、その人のことが何もかも分からなくなったわけではない。そのことを家族に理解してもらうことは治療上必要である。
あるアルツハイマー型認知症の母から、長男が甥の名前で呼ばれてショックを受けた。しかし、その後本人と話していると、長男の嫁のことは正しく認識し、孫たちのエピソードも正しく思い出していた。しばらくして長男を正しい名前で呼んだりもした。人の名前の記憶があいまいになり、間違えることもまれでなくなるが、その人の顔と、その人の様々な思い出は固く結びついていると思われることが多い。ここでは74歳のアルツハイマー型認知症の夫を介護する妻と治療者との対話を挙げる。

妻 彼の手を握って、「誰だか分かる?」って言ったら、「さあ、どちらの人でしょう」って、言うんです。愕然としました。私が全然分からなかった。……ずっと手を握って、……「分かる?」って尋ねた後に、「分からない」って言われたので、さすがにその後はこたえました。
治療者 「分からない」と本人が言うとき、その分からないというのはどんな意味なのでしょうか?
妻 「誰かわかんない」って言いました。はっきりと私、言われました。ショックを受けました。私、この人から忘れられたんだわって。
治療者 最近まで分かっていたのですね?
妻  まだ私だと思ってくれていると思っていた。
治療者 この1、2年もそう?
妻  もっと前からね、「あなたっていうことを認識してないわよ」って言う友人もいましたけど。
治療者 時間によっても変わりますし、日によっても変わるかもしれない。
妻 変わりますよね。
治療者 本人が「分かんない」って言ったとき、その意味するところが、誰だか分からないという意味とは限らない……もしかしたら、うまく言葉を選べなくて、なんて答えたらいいか分かんないという意味かもしれない。長くずっと人生を共にしてきたきたことは感じているかもしれない。
妻 なんて言ったらいいか分からない?
治療者 例えばね。
妻 もう言葉を探すってことはできないんでしょうね。能力はないんでしょうか?
治療者 できないというよりは、言葉を探すのに時間がかかるということでしょうね。しかも努力が必要になるんです。ちょっとした会話をするのにも努力し続けるのって……。
妻 大変ですよね。
治療者 そう。大変。調子がよくて、体調も整って、まだ、頭が疲れていない朝だったら、パッと出るかもしれないけれど、そうじゃないときも多い。
妻 私が作ったごはん食べて「おいしいっ?」て尋ねたらね、「うん、ママ(妻の呼び名)の味だ」って言いました。
治療者 そうですか。あのね、「私は誰ですか?」っていう質問は、しないほうがいいと思います
妻 でも「あなたの奥さんでしょ?」って言うとね、じっと見てますけど、うんとは言うんですけどね。果たしてね、それが100%分かって言っているのか、分かっていないのか……。
治療者 100%分かっているとも、100%分からないとも、いえないと思います。
妻 どこか頭の中に、私はあるんでしょうか?
治療者 間違いなくあります。だって、料理を食べたときに「ママ」とパッと出るわけですから。確認することは、いいことないんです。確認して、本人がたまたま答えられると、家族はついつい追加していろいろと質問してしまう。どこまで分かってくれているんであろうって思って質問してしまう。そして、分からないところまで質問して、最後はいつもがっかりする。
妻 あまりね、追求することは、彼にとってはよくないなと思って。私は私なりに考えて、愛されていると思って、満足していようと思って。
治療者:それがよいですね。でも、「ママ」って言葉が出てきたことは大切な経験でしたね。それは次に活かせると思います。ほかに、本人が「ママの味」と言うようなものを作れますか?
妻 なんだろう。
治療者:今度は、そういうのを作ってあげたらいい。
妻 はい。
治療者:ご本人が好きなものの中に、そういうものがきっとあると思うので。で、そのときに「私は誰?」って尋ねたりしないで、「おいしかった?」って尋ねたらいいじゃないですか。
妻 そうですね。
治療者:そうですよ。家族はみんな深みにはまってしまう。気持ちは分かるのですが。本人が少しでも質問に答えられちゃうとね。ついついもっと分かっているのかなって。
妻 だんだん、何かを聞き出そうとするんです。
治療者:そうですよね。家族は確認したい。でもなんとなくぼんやりおぼろげに憶えていても言葉にできないことのほうが多いでしょ。で、質問して、答えられないと、ああ、もう分かんなくなっちゃったと思う。だけど、そう単純ではない。何か質問されると、まず質問を理解するっていう脳の働きがあって、次に質問の答えを考える脳の働きがあって、次に答えを用意するっていう脳の働きがあるんです。質問に答えるには、理解して、考えて、答えるっていう能力が全部揃わないと答えられないんです。でも人は、質問に答えられないと、理解できないし、考えられないし、答えられないって、何にも分からないって思ってしまう。実は理解して考えているかもしれない。答えだって出ているかもしれない。言葉に表せないだけかもしれない。でも言葉が出ないと、何にも分かってないと思ってしまう…。

家族の不安は、本人にどれだけ確かめても和らぐことはない。なぜなら家族の不安は本人の頼りない言動から引き起こされるのではなく家族の心の中にあるものだからである。本人がどこまで理解しているかを確認することはできない。分かっているのか分からないのか区別がつかないときは、分かっているものとして対応してみたらよいのではないであろうか。家族にそのように勧めてみるのがよいのではないであろうか。本人が分かっていると思って話しかける人と、分かっていないと思って話しかける人とでは、同じ本人でも反応が違うように思われる。こちらの想いが態度に出るからである。どうせ分かっていないであろうと思って話しかけた人に、頑張って何かを伝えようとする人はいないと思われる。

遠隔記憶までも薄れるとき

アルツハイマー型認知症が高度に進行しても、遠隔記憶のエピソードは保たれていることが多い。とくに繰り返し想起した記憶ほど保たれていると考えられる。本人との会話を楽しむためには昔のことを話題にするのがよいとされる。リハビリテーションも同様である。しかし本人が忘れたときの家族のショックが強いのも、また遠い過去の記憶なのである。「昔のことさえも分からなくなってしまった」と家族には感じられるからである。
79歳のアルツハイマー型認知症の夫は、若い頃に妻をよく長距離のドライブに連れて行った。それは妻にとって大切な思い出でもあった。その妻と治療者との対話を示した。

妻 昨日、夫と話していて、とてもがっかりしたんです。アルバムを出してきて「若い頃はあなたが車でいろいろなところに連れて行ってくれて、とっても感謝しているのよ。たくさんの思い出があるのよ」ってそのときの写真を見せたら「そんなところに行ったかな」って言うんです。だから、「一緒に行ったでしょ? あなたと行ったでしょ? 造船所の跡地のドックヤードを見に行ったとき、『船ってこんなところで造るのね』って私が言ったら、あなたは得意になって船の造り方を説明してくれたでしょっ?」て言っても、「そんなこと言ったかなあ」って言うんです。それを聞いたら、あんなに何度もドライブに行ったことももう忘れているんだと分かって、とてもがっかりしたんです。
治療者 本人に写真を見せて、「ここ行ったわよね?」っておっしゃったのですね、そしたら、「そんなところ行ったかなあ」って言ったんですね。ご本人は忘れたときにそういう言い方をするのですか?
妻 彼がですか? ニコニコしてました。
治療者 以前にご主人はたいへんな照れ屋だって言ってましたね。自分がしたことで人から感謝されると、とぼけたりするんですよね? 会話が普通にできた頃に、本人と話していてそう感じたことがあったんですよね? 本人は照れ隠しにそういう言い方をすることはありませんか?
妻 しますね。
治療者 ホントのところは分かりませんが、もしかしたら照れ隠しの言葉かもしれない。そういう可能性もないとはいえない。
妻 それは病気になる前からそういう言い方します。
治療者 もしかしたら忘れてしまったかもしれない。分からなくなっているかもしれない。でも、もしかしたら、何度もドライブに行ったことは思い出してるけど、写真を見せた場所に行った記憶は定かではないということかもしれない。あなた自身だって旅行に行った場所を全部憶えているとは限らないでしょ? そういう意味で「そんなところへ行ったっけ?」とつぶやいたのかもしれない。
妻 そうかもしれない。
治療者 「何度も連れてってもらってうれしかったわっ」てあなたが言ったら、あの人は絶対照れますよね。
妻 そういうところあります。
治療者 そうですね。
妻 そうだっけかとか、とぼけますね。
治療者 「そうだっけっ」て言いそうですね。
妻 言いそうですね。
治療者 病気が進行して、言葉も出なくなってきているくらいだから、思い出すことがもうできないと言う人がいるかもしれない。しかし憶えているか憶えていないかは確かめようがない。どうですか。分かっているにかいないのか分からないときは、分かっていることにしませんか? わざわざ悪い方に考える理由もないわけですから。

アルツハイマー型認知症が進行しても本人の態度や言動で変わらない部分もたくさんある。この人の場合も、元気だったときと同じような言い方でとぼけたり、照れ隠しに気付かない振りをしたりすることはあると思われた。家族の気持ちの中には、忘れてしまったという失望とともに、憶えていてほしい、きっと忘れてはいないはず、という想いもささやかながらあるはずである。その憶えているはずだとのささやかな希望を共有することは、しばしば家族の支えになると思われる。

出典:繁田雅弘.認知症の精神療法 アルツハイマー型認知症の人との対話.HOUSE出版.2020

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