津波/足の不自由な伯父との避難-令和6年能登半島地震被災体験記

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突然の地震に立ち上がることもできず

私の母の実家が石川県志賀町にあり、現在は伯母夫婦が住んでいます。昨年1231日から両親、弟一家とともに帰省していました。元旦の夕方、居間でそろそろ鍋の用意をしようか、と言っていたとき、携帯電話の緊急地震速報が鳴り響き、すぐにガタガタと家全体が大きく揺れ始めました。お盆にも地震があり、またと思いました。子どもたちに「机の下に入って!」と言うと小学生の子たちはすぐに床机の下にもぐりこみました。大人は入るところはなく、立ち上がることもできず、木造の家だからもしかしたら壊れてしまうかもしれない、そうしたらどうなるんだろうと思いながらただそばにあった棚を押さえていました。

 

足の不自由な伯父と、津波におびえながら急いで避難

避難後、帰宅すると海岸沿いの道路には津波の後が残っていた。

●避難後、帰宅すると海岸沿いの道路には津波の跡が残っていた。

 

 家はなんとか倒壊を免れました。揺れが収まるとすぐに、「上着着て!靴履いて、すぐに車に乗るよ!」と子どもたちに声をかけ、子どもたちはすばやく外に出ました。伯母の家は海まで30mくらいの場所ですので、津波は5分で来るかもしれない、急がないと、と思っていました。緊張で携帯を持つ手が震え心臓はドキドキしていました。別の部屋にいた伯母夫婦を見に行くとまだ迷っているようでした。「車に乗って、避難するよ!」と声をかけ、足が不自由な伯父の両脇を私と母で支え車に乗り込みました。そのとき持って出たのは携帯と財布などの入ったバッグ、目についたペットボトルのお茶とお菓子、バナナだけでした。家の前には瓦が落ちていて、道沿いのブロック塀の上の方が一部、壊れていました。道路にはひびが入っていました。

 

余震の中、介護施設への避難を試みたが・・ 

とりあえず、海から離れ車で5分ほどの坂を上ったところに伯父のお世話になっている介護施設があり、その付近まで行き路上で待機しました。(しっかりした建物なのでもしかしたら避難させてもらえるかもという思いもありましたが、それどころではなかったようです。)何度も余震があり、車もグラグラと揺れましたが、「揺れてもここなら安心だよ」と子どもに声をかけていました。車のテレビから「津波警報が出ています」と繰り返し聞こえる中、気が付くと日が暮れていて、(地震発生が)夜じゃなくてよかったと思いました。他にも数台の車が避難してきていました。

 

原子力発電所の不安と電力会社社員寮への避難

避難した社員寮にて。テレビでは被害の報道が流れて来る。

●避難した社員寮にて。テレビでは被害の報道が流れて来る。

 

 しばらく待機していると、「この近くの北陸電力の社員寮に避難できる」という情報を教えてもらい、そこへ移動しました。そのとき、近くに原子力発電所があることを思い出しましたが、「今は動いてないから大丈夫だよね」と不安を打ち消しました。避難した施設は鉄筋コンクリートの建物で、広い談話室を開放してくださり、暖房も入っていてほっとしました。トイレはしばらくすると水が出なくなりましたが、浴槽のお湯があり、トイレに運んで流すことができました。3040人くらいの人が避難しており、その日はずっとテレビでNHKの地震の報道を見ていました。夜、施設の方がおにぎりを用意してくださり空腹を満たすことができました。津波警報は深夜に津波注意報になり、少しほっとしました。余震にはだんだん慣れてきましたが、朝までほとんど眠れませんでした。

津波の被害と自宅の様子

港には、津波のあとが残っていた。

●港には、津波の跡が残っていた。

 

 2日の朝、家の様子を見に行くと、目の前の漁港は津波が到達していたようで、漂着物が流れ着いていました。しかし、被害は少なく、海沿いの道が濡れていて魚が1匹打ち上げられていました。幸い家までは津波は来ていませんでした。家の中は神棚の物が落ちて壊れており、台所も棚から物が落ちていたり、食器棚の中のグラスが割れていたりと散らかっていました。富山にいるいとこも駆けつけ、家の中を片づけたり、避難場所に持っていくもの(食べ物やタオル、歯ブラシなど)をまとめ再び避難先の施設に戻りました。津波注意報も解除され、家自体は壊れてはいませんでしたが、家に戻ってよいのか不安がありました。避難先の施設は公的な避難場所ではなかったため、物資は届かないということで、どなたかが持ってきてくれたお米で、その日もおにぎりをいただくことができました。

 

京都への帰宅

その日の夜も避難先で過ごし、道路状況などを確認し、京都には帰ることができそうだと思い、翌朝早く避難先から京都に帰りました。自動車道路は、志賀町の一部は通行止めでしたが、その先は金沢まで開通しており、北陸道も問題ありませんでしたので、順調に帰ることができました。

 

要介護2の伯父のその後と再訪問

実家では断水が続く

●実家では断水が続く

 

 伯母夫婦はとりあえずまだ施設にいさせてもらう、ということでしたが、私たちが帰った後、他の人たちも家に帰ったので、伯母夫婦も家に帰ったとのことでした。断水になっていて、要介護2の伯父と二人なので、心配でした。母は、「残ればよかった」と言っていました。翌日、いとこが伯母のところに飲料水やトイレ用の水など持ってきたとのことでした。いとこは長くはいられないとのことで、母がまた志賀町に戻ることになりました。ウエットティッシュ、ラップ、アルミホイル、トイレに水を流すための手桶などを持ってきてほしいとのことで、京都で調達し父の車で向かいました。翌日父は京都に戻りましたが、母は当分、志賀町に残ると言っています。断水が解消され、伯父のデイサービスの受け入れが始まらないと戻ってこれないと思います。今はみんな元気でやっているということですが、地震から日が経つにつれ疲れやストレスが溜まっているのではないかと心配です。志賀町の入浴施設が、6日以降、毎朝8時から整理券を配り時間を決めて無料で入浴できるようになりました。伯母と母もやっとお風呂に入れたとのことでしたが、伯父は普段デイサービスで入浴しているため、いまだ入浴できないままです。

山の水を汲んで

●山の水を汲んで

雨どいの水も桶にためる

●雨どいの水も桶にためる

玄関に置かれた飲料水の給水袋

●玄関に置かれた飲料水の給水袋

原子力発電所への不安

 志賀原子力発電所が稼働していたらと思うと、本当に怖いです。これだけ能登で地震が頻発しているのだから、もう動かすことはできないだろうなと思いました。

投稿者 京都府在住 河端千絵

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