日本|あなたは若年性アルツハイマー型認知症です|さとうみき|アジアの声
■さとうみきさん(48歳)は、43歳の時に認知症と診断されました。
診断とその後
その時、わたしは43歳。夫と高校生の息子と暮らしていました。
今思い返されることは、診断当時、わたしには認知症についての正しい知識がなかったこと、そして、偏見があったということです。当時インターネットで「若年性認知症」を調べると、出てくるのは数年で寝たきりと言ったネガティブな情報ばかり。前向きになれるような情報には出会うことが出来ませんでした。
診断直後に感じたことは 「認知症」=「わたしの人生は終わった」でした。
診察室で、隣に座っていた夫に「ごめんなさい、ごめんなさい…」そんな言葉を絞り出すのがやっとで泣いていました。この時、私はなぜ謝っていたのでしょうか。
私たちの一人息子は2歳の時に自閉症スペクトラムの診断を受けており、子育てはとても大変でした。わたしも体と心を壊してしまい、入退院の繰り返しの生活を送っていましたが、息子が高校生になり、成長するとともにわたしの体調も少しずつ快方に向っていました。わが子の未来も少しずつ見えてきた矢先、今度は私自身が数年で、未成年の息子と働き盛りの夫に「介護」という負担を負わせてしまうのだ…と考えたのです。
夫は、そんな私に対して言葉ではなく、私の膝を優しくポンポンとさすってくれていました。それは、まるで「大丈夫だよ」という夫の精一杯のメッセージのように…。
せっかく成長したひとり息子の先の人生を見守ることもできないのかと、深い深い悲しみと絶望感の中から半年あまりを自宅に閉じこもった生活を送っていました。何もできなくなっていく自分の姿、どんどんと衰え、進行していく自分の姿を大切な家族に見せたくない。いっそのこと、家族に迷惑をかける前にひとり静かに消えてしまいたい。そんなふうにしか毎日考えることができなくなっていました。
ターニングポイント
「このままではいけない」そんな思いで気持ちを奮い立たせる日もありました。そして、認知症と診断を受けた人たちが今どのように生活をしているのか、お会いしてみたい気持ちが私の中に出てきました。
そんな思いの中、国内外で精力的に活動している若年性認知症の当事者・丹野智文さんにお会いすることができました。後日、たくさんの方と出会いたいとFacebookで丹野さんをタグ付けさせていただき、自己紹介と共にその時の想いを投稿しました。
その後出会ったのが、現在私が勤務するデイサービスの代表・守谷卓也さんでした。自宅に閉じこもっている私を気にかけてくださり、「リハビリだと思って1度遊びにきませんか?」と、お誘いを頂きましたが、なかなか足を運ぶことができませんでした。度々LINEで気にかけてくださるようなメッセージを頂き、ようやく「ちょっと行ってみようかな」と、エンジンがかかり遊びに行くことができました。
守谷卓也さんのデイサービス
私がイメージしていたデイサービスの施設とは異なり、どこか懐かしい住宅街の中の一軒家。利用者さんはまるで我が家のように、「ただいま〜」と笑顔で元気よく玄関から入ってきます。
一つ屋根の下に暮らす家族のような温かさがあり、この場所がのちに私にとっての大切な「居場所」となり、様々な活動のきっかけとなったのです。少しずつ慣れてきて楽しんでいる私の様子を見た守谷さんから、「よかったら一緒に少しずつ働いてみませんか?」そんなお誘いを受けた時、私は自分の耳を疑いました。
「認知症と診断を受けた私が働いても大丈夫なんですか?」
すると守谷さんは、「認知症とか障害があることにかかわらず、ここではスタッフも利用者さんもメンバーと言って、フラットな関係の場所なんですよ」そう教えてくれました。
長く閉じこもっていた生活から、少しずつ気持ちを切り替え、扉を開けて社会に一歩ずつ歩むための力を与えてくれた方々と共に認知症である私の「人生第2章」がスタートしたのです。
人生第2章
そこあるのは以前の私の姿ではありません。認知症と診断を受けた私が、守屋さんからチャンスをいただきました。
デイサービスでの当事者スタッフとしての勤務、ピアサポート、講演や執筆、空港ユニバーサルデザインなどさまざまな活動に取り組んでいます。
そして、認知症と診断を受けてから、認知症があることにも理解ある事務所で、モデルとしての活動も再開しました。
新しい時代の多様性と可能性を、認知症のある私を通じても知って欲しいと思っています。
私は、「認知症と診断を受けた今が、人生が一番充実し、楽しい」と、感じています。
この気持ちになるまでは様々な葛藤もありましたし、今でも不安で涙することがあります。
けれども、よりどころにしている言葉が励ましてくれます)「いまを生きる」「自分らしく生きる」「わたしはわたし」
認知症の私たちは、みなさんよりひと足先に認知症になっただけなのです。
私たちそのものは何も変わったわけではないのです。変わるのは、偏見による周囲の視線なのです。
認知症の人が言葉がうまく話せなくなってしまうと、何も分からない人、何も出来ない人と思う人は少なくないと思います。
認知症の経験を支援に
最近の私自身の症状から分かってきたことがあります。頭の中では、伝えたい言葉が整列していることもあるし、伝えたいこともあります。でも、その言葉が思うようにうまく口から言葉として声に出せなかったり、適切な言葉で表現が出来ないことがあります。
私は、そんな認知症の仲間たちと過ごすとき、自分もわかる感覚だからこそ、の想いで、言葉が出にくい方に寄り添っています。ご本人の言葉の「ヒント」を探して、少しずつお伝えすることで、嬉しそうに語りはじめられる瞬間があるのです。
私自身、家族と過ごしている時にうまく気持ちを伝えられず、焦ってしまい、「私バカだから、どうせ分からないよ!」
と家族に言い放ち、涙を流したこともあります。少しずつ、周囲の人と違うようなスピード感、そんな、自分たちの変化の感覚がわかるからこそ、私たちは不安にもなるのです。それでも私たちはみんな必死に頑張っています。私たちは自分たちで頑張ってやりたいことはたくさんあり、時間がかかっても、自分で出来た時の達成感は嬉しいものです。
皆さんにお伝えしたいこと
苦手なことも、周囲の理解と時間の余裕をもって必要なサポートが得られれば、誰もがやりたいことに挑戦できると思います。小さな夢でも、小さな希望でもいいのです。一人では不安でも、認知症のある私たちがやりたいと思うことに、共に伴走して下さる方々の存在があれば、一歩踏み出せるのです。「認知症という名の旅」が楽しく、
よりよく充実した人生のストーリーになることを私自身の経験からみなさんに知って頂きたいです。
そしてもうひとつ
「認知症の私たちは、待ったなしなのです」1分1秒がどれだけ大切かをお伝えしたいです。
先延ばしの支援や法律に、私たちの夢や希望はあるでしょうか?
認知症には誰でもなり得るのです。
私は大丈夫といった他人事ではなく、自分事として一人一人が考えれば、それはきっと認知症の私たちだけでなくさまざまな病気や障害などを持っている人々にとっても生きやすい社会、生きやすい国、生きやすい世界になることでしょう。
そして、認知症の私たちは他の人達とともに)より良い暮らしを続けていくことが出来るのです。
認知症になっても、人生は終わらない、私たちにも未来があり、皆さんより、ひと足先に認知症になっただけなのです。
この記事は、「Living with Dementia : Voice of Asia (英語) 」に掲載された内容の日本語(オリジナル)です。