介護体験『かったる~い!!』2
■失禁
令和3年元旦の午前8時、母と2人で作った雑煮がようやく出来上がった。それとなく段取りを誘導したとはいえ、下ごしらえは私がほとんどやってしまったとはいえ、もう母には全く手伝えまいと観念していたので無性にうれしくなった。意味記憶やエピソード記憶はともかく、手続き記憶はまだまだ大丈夫なんだなあと合点したからだ。だから10年前に他界した父へ無理な話が及んでもイライラはしなかった。そこで仏壇へ行き、亡父も食べるであろう雑煮の小椀と新茶を供える。同時にお線香もあげるため、既に食卓に座し雑煮を食べようとしている母を呼んだ。
ところがやっと仏壇前まで来た母の一声は、
「ああ、線香ね。…もういいのよ、生きている者の方が大事だから」
「でも、せっかく来たんだからさ」
と食い下がると、今回だけはあげてやると言わんばかりに素っ気なく火を付けた。その際中々上手くいかなかったのには、手続き記憶の1つであるだけに少し失笑してしまった。それから一度座ると容易に立ち上がれぬ母の後ろ姿をじっと見守った。
そしてようやく立ち上がるや母なりの急ぎ足でトイレへ向かったが、その中へ姿を消すまでに1m間隔で小さな泉がそこかしこと出来てしまった。
私はいつものように母の出てくるまでに畳やフローリングを素早く拭いてしまう。とは言えこの頃は1日1回はこのような粗相をするようになっていたので、だいぶ前よりそれとなく失禁の事をほのめかしていた。無論母は一笑に付してしまう。決して悪意があるからではなく、また恥ずかしいからでもなく、単に忘れてしまっているからだ。そしてパンツをはく事も。
■母はどうなっていくのだろう?
翌日、箱根駅伝の往路1区を餠を頬張りながら見入っている母に、恐る恐る試してみた。
「私が呆けていると思ってんだろ?」
自信あり気にニヤリ笑うと、100-7にやおら93と答える。ついでに8を引かせると瞬時に85と答え、もういいだろうという表情を見せる。
つくづく私は思った。
そりゃそうだな、計算は頭頂葉のIPL(下頭頂小葉)角回が責任臓器になっているのだから、頭のてっぺんまではアミロイドβや繊維化タウタンパクの魔の手もまだ伸びてはいないという事なのだろう。
午後、3G用iPhone5cの古いPC並に動作の重くなった検索画面を繰るともなく繰っていると、献脳生前登録を標榜している「Brain Bank」に出くわした。
私の母方祖母が(おそらく)ADを顕在化させてから3年半、最晩年PD(パーキンソン病)も併発していた実父は、約4年で鬼籍へ入ってしまった。
2人とも最後の1年ほぼ自己の意識を失い、脳全域を病態に完全支配されてしまった経緯についてはよく似ている。けれども対照的なのは祖母の性格が極度に険悪化していったのに対し、父のそれは健常時より陽性化した事だ。
では母はどうなっていくのだろう?
どうも祖母の推移した軌跡を辿っていくような気がしてならない。mild ASDの私からすればかなりの覚悟が必要だ。今からの実余命も1年半~2年と見積もっておかねばなるまい。そう思案を巡らしながら一通り読み進めると、俄かにBrain Bankに登録したいという気が高まった。
別に「未来の医療のために」とか、「次世代への希望の贈り物」などという崇高な心根からではなく、未婚で生涯を終える私が最後の身内になるであろう実母の「なにか」をこの世に残しておきたいと思ったからだ。
祖母や父母、近い将来私をも苦しめるかもしれぬ認知症のプロセス全容解明に少しでも貢献出来たらいいな、という気持ちは自ずと高まっていった。おそらく今の今も眠っている母の脳の至る所で、ニューロンやシナプス、グリアの変容が進行しているのだろう。
だが私は医師ではない。
仮に医師であっても未だまともに治す術はないのだ。だが食事支度でキッチンへ行く前にこれだけは書いておこうと思う。
■かったるい、面倒くさい
若い頃歴史、特に世界史に目の無かった私は、ついAD の脳に対する侵略を大英帝国のムガル帝国に対するそれになぞらえてしまう事だ。ADは大英帝国同様、初めから全域を制服しようとしていたわけではない。
脳側が、ムガル側が適切な行動をある程度取っていれば30年経っても、300年経っても完全支配される悲劇を招かずに済んだと思っている。だがプラッシーの戦い以降、すなわちMCIが初期認知症へ移行する前後から、独立維持や脳の安全と征服は不可逆的になり後戻りする事が叶わなくなってしまうのである。そして最後に人としての尊厳さえ失われてしまう時、セポイの反乱が半島全域へ拡がる時、脳はADにより完全支配されてしまうのである。妄想の種は尽きないが、そろそろ支度を始めようと思う。
更に1年が過ぎ令和4年の元旦。
この日も幕張地区は快晴に恵まれている。元旦とていつもと同じようにキッチンへ向かうと、珍しく食卓の私の席前に置き紙がしてあった。
<?日を(曜日)、今日、ゴミを捨てられるか考えて捨てて下さい>
読んで刹那まずムカッとした。
(元旦早々、ゴミの出せる国がどこにある?)
だが30秒も経つと妙にうれしくなってきた。短文ではあるがほぼ読めるし漢字の間違いもない―まあ分からない漢字を含む文章自体を避けたという解釈もできるがーがそれはそれで脳の検索機能が正しく発動した事を意味する。そして間もなく不可思議な気分に捕らわれてしまう。
漢字や文章の創作はウェルニッケ野が責任臓器だが同野は側頭葉の中にあるし、海馬や嗅内皮質も側頭葉へニューロン投射している。
一般的にはまず側頭葉がダメージを受けるというのに認知症が中期にまで進んで、ウェルニッケ野が無事であるとは中々考えにくい。やはりもう1度認知症の種別確認のために、あるいはそもそも認知症なのかどうかを裁定してもらうために、母を脳神経外科へ連れていった方が良いのではないか。いずれにせよ母は変わった。「かったるい、面倒くさい」を口実に、ほぼ何もしなく(出来なく)なった。
昨年の今頃は、
「寒いね、夏はシャワーだけでいいけど、冬は毎日でも風呂へ浸かりたいよ」
が口癖だったのに今は
「風呂は1ヶ月に1度でいいよ。肩も痛いし、脚も上がらないから」
やはり介護区分の変更申請は急がなければならないだろう。何もかも急激に出来なくなってきている。明日は本当に何が起こるか分からない。
■もう死にたいよ
1日1日をかみしめるように過ごしている。
母の眠る時間が1日1日確実に増えていくのは痛いほど感じている。そして母の眠りの世界が遂に24時間を支配した時、それが私との別れなのだな、もう遠い事ではないだろう。だがそう思った時、なぜか涙は出てこなかった。他病や事故による峻厳死ならば1→0が俄かに訪れ悲しみに圧倒されてしまうのであろうが、認知症による死は違う。1が0.97になり、0.43になり、忘れた頃0になる。
それまでにはいくら小心者の私でも、心の準備を十分に済ませておく事ができる。もちろんそれを計る数値計は未だ存在しない。けれども感じる事は出来る。だがその数値は日々徐々にではあるが変わって(減って)いくものであるし、逐一口外しようとも思わない。
とどのつまり1→0とは意識が眠りの姿を借りて無意識になる事である。それは大脳皮質システムの小脳化なのかもしれない。大脳には個性豊かな皮質回路が無数にあり、常時無秩序に幾つかの回路が主張し合って何らかの発火をしている。
それが個々の意識に相違ないのだが最後には皆、某陸軍の行進のように一糸乱れぬ断末魔のニューロン発火を見せ、意識は0になる。
「お前は一体誰なのだえ?」
「俺だよ、母さん!」
認知症が中期から後期へ移らんとする時、後頭葉の視覚回路が激しく侵され「不気味の谷」が訪れると言う。
私が息にあまりにも似ているがどこか違う、母にはそう映るのだ。だがその悲しみさえもそう長くは続かない。やがて母は私を夢見心地の潤った目で眺めるのだろう。
「ああ、かったる~い!! もう死にたいよ」
その声で私はようやく我に戻り、次になすべき事を考えた。
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