認知症のある人の感情の豊かさについて

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認知症のある人の感情の豊かさについて

恩蔵 絢子(東京大学大学院総合文化研究科特任研究員)

私の母は2015年に65歳でアルツハイマー型認知症と診断されました。母が2023年になくなるまで約8年間、私は母と一緒に暮らし、母の様子を観察してきました。認知症では人格が変化すると言われたり、言語表現や感情表現が乏しくなっていくと言われたりすることがあります。しかし、母は2021年に「重度」と診断された後も、豊かな表情を家の中でみせてくれ、最後まで私の面倒を見ようとしていました。私は、母との経験を通し、認知症でその人らしさは変わらない、と信じるようになりました。

これを科学的に証明することが私の目的となりました。たとえば、脳からはどんなことが言えるのでしょう。アルツハイマー型認知症では典型的には海馬の萎縮が問題になりますが、海馬以外の脳領域はどうなっているのでしょう。母の脳画像を見てみると2021年では確かに海馬は大きく萎縮していました。しかし、「重度」と言われた後でも、比較的無事に見える領域もたくさんあったのです。

東北大学の瀧靖之先生らのご協力を経て、母の大脳皮質全体の萎縮の速さを、認知症のない人と比べることができました。そこで見えたのは、母はピアノの先生で小さな頃から音楽を愛して暮らしてきた人なのですが、音楽の才に関わると知られているへッシェル回は、認知症のない人と比べても母の中で保たれていることがわかりました。これは母が人生で費やしてきた時間は認知症になっても失われないという一つの証拠になり得ます。

もう一つ驚くべきは、脳の高次野の中にもよく保たれている部位があったことです。たとえば、背外側前頭前野はIQとの相関が高いと言われており、知性の権化のような部位ですが、この部位も、認知症のない人と比べて、母の脳では萎縮の速さが変わらなかったのです。

認知症になってもダメージを受けにくい脳部位はあるということです。その中には、母一人に限ったN=1の結果ですが、背外側前頭前野も含まれていました。もしかしたら背外側前頭前野の働きは、知性の高さというよりも、自分に残っている部位の能力を結集して、なんとか生きようとする意志のようなものに相関しているのかもしれません。いずれにしても認知症がある人の中には、さまざまな能力や感情が残っている可能性があります。

今回は、産業技術総合研究所の大野美喜子さん、東京都健康長寿医療センター研究所の津田修治さん、そして慶応大学かつ認知症未来共創ハブの堀田聰子さんらとともに、母以外の人に研究を拡大し、認知症のある人に残る感情の豊かさを調べることにしました。認知症未来共創ハブは、素晴らしいことに、これまで100人以上の認知症のある人にインタビューをし、そのデータを蓄えてきました。インタビューは一人につき60分から90分にも及びます。そしてインタビューでは認知症のある人が感じている生活の困難から未来に対する希望までさまざまなことを聞き取り、それを文字化していらっしゃいます。今回は、2019年から2020年までに行われた88人のインタビューの文字起こしの中に表れている感情について分析をしました。この88人はインタビューの時点で、診断から平均4.88年が経過した人たちでした。つまり診断から5年近くの時間が経ってなお、認知症のある人が言葉でたくさんのことを表現することができていることは注目するべきことです。

方法としては、13人の認知症のない被験者に、88人のインタビューの文字起こしを分担して読んでもらい、一人の人のインタビューのすべてを読むごとに、そのインタビューにどんな感情(怒り、嫌悪、恐れ、幸せ、悲しみ、驚きというポール・エクマンの定義した6つの基本感情のそれぞれ)がどれくらい強く表れていたかを5段階で評価してもらいました。その結果、これらのインタビューの中に一番強く表れていた感情は、幸せの感情だということがわかりました。

通常、認知症には、恐れや怒りの感情を連想する人がまだ多いのではないかと思います。しかし、そのようなイメージとは異なり、インタビューの中で表されていたのは幸せの感情でした。これは大事な結果だと考えられます。

その大切さをさらに考察するため、この文字起こしを読んだ13人の被験者はインタビューのどんなところから幸せを感じ取ったのかを調べようと、彼らに文字起こしの中から特に印象的だった部分を複数抜き出してもらいました。それを今のところ私一人の分類に過ぎませんが、20個のカテゴリーに分け、どんなカテゴリーが一番多かったかを分析してみました。

13人の被験者が心に残ったこととして、一番多かったのは、「こんなふうになっちゃって、もうしょうがないのよ」などと、認知症の人が自分の状態をユーモア持って語ることがあることでした。また、「自分と同じ認知症のある人と初めて会ったことにより人生が変わったんだ」と話している人も多く、他者と会うことによる喜びが心に残る人が多かったようです。また、過去の出来事を幸せな気持ちで思い出す認知症の人は多く、思い出すことが幸せな気持ちを作り、認知症のある人の生きる力になる可能性に被験者は心を動かされていました。

先ほど、認知症の人は、インタビューの中で幸せを一番強く表していたと言いましたが、この幸せは、なんとかして自分の状態を受け入れ、新しい人に出会う努力をし、自ら工夫して掴み取っているものなのだと考えられます。

一方、一般の人たちに恩蔵のXアカウント(旧ツイッター)上で認知症に関する意識調査を行い、認知症のある人たちが普段どんな感情を持って暮らしていると思うかとアンケートを行うと、多くの人は、恐れを強く、また幸せは一番弱く感じているだろうと答えていました。これは、認知症のある人の実像とは違う可能性があります。また、次に、認知症のない人は普段どのような感情を持って暮らしていると思うかとアンケートを行うと、幸せが一番強いと答えていました。つまり、一般の人のイメージの中では、認知症のある人は恐れ、認知症のない人は幸せが一番強く暮らしているということです。しかし、実際には、少なくともインタビューの最中から見えることとしては、認知症のある人は、認知症のない人と同じように、幸せを一番強く感じて暮らしていると考えられるのです。

    

恩蔵 絢子(おんぞう あやこ)

恩蔵絢子

1979年、神奈川県生まれ。脳科学者(学術博士)。専門は自意識と感情。2024年現在、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員。

 同居する母親が、2015年にアルツハイマー型認知症と診断され、以来娘として生活の中で表れる認知症の症状に向き合ってきた。一方で母親を脳科学者として客観的に分析することで、医者/患者、科学者/被験者という立場で研究するのとは違った認知症の理解を持つにいたり、情報を発信している。2023年1月には母親との家での時間に密着したドキュメンタリー、NHKスペシャル『認知症の母と脳科学者の私』が放映された…

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